虐殺器官の生みの親 「伊藤計劃」
千葉八千代松陰高等学校を経て、武蔵野美術大学美術学部映像学科卒業。 2004年1月から「はてなダイアリー」にて映画・SF評論ブログを開始する。 Webディレクターの傍ら執筆した『虐殺器官』が、2006年第7回小松左京賞最終候補となり、ハヤカワSFシリーズ Jコレクションより刊行され、作家デビュー。同作は『SFが読みたい! 2008年版』1位、月刊プレイボーイミステリー大賞1位、日本SF作家クラブ主催の第28回日本SF大賞候補となる。
小島秀夫さんとの交流
ゲームデザイナーの小島秀夫と伊藤計劃
「東京ゲームショー98春」での『メタルギアソリッド』の展示ブースで初めて出会った。ゲームの大ファンであった伊藤は小島にトレーラーの感想を熱心に語り、小島も熱心なファンとして記憶した。その後も同人誌やファンレターを送るなど、ファンとクリエイターという関係での交流が続いた。
2001年9月、小島は入院した伊藤への見舞いとして、社外秘であった開発途中の『メタルギアソリッド2』のカットシーンを持参した。伊藤は映像を見終わった後「ゲームが完成するまで死にません」と言ったという。その後、発表会に小島は退院した伊藤を招待し、この頃には「友人同士」の関係になっていた。発売された『メタルギアソリッド2』は賛否両論だったが、伊藤は自分のウェブサイトで「こんな作品を喜ぶのは俺だけだ!」と擁護した。
作家デビュー作である『虐殺器官』を小島は絶賛した。原型となった短編小説が小島の初期の作品である『スナッチャー』のファン小説ということもあり、小島は開発中だった新作『メタルギアソリッド4』のノベライズを伊藤に依頼する。伊藤も、ノベライズにありがちな軽い文章にすることを避け、再読できる立派な「小説」を目指して執筆し、その出来には小島も満足した。小島は、引き続き『メタルギアソリッド3』とその後の話である次回作を一つの小説として伊藤に依頼する考えであった。
死後強まるカリスマ性 伊藤計劃 病床で10日間で書き上げた作品
「3回生まれ変わってもこんなにすごいものは書けない」。宮部みゆきがその才能に嫉妬した、伊藤計劃。読めばあなたも、その息遣いを感じるはずだ。その日の夕食がカレーだと聞いた伊藤聡は、「じゃあ、食べてみる」とベッド脇の母親に言った。もう何日も食欲がなかった。母の和恵(70)がスプーンでカレーを口元に運ぶと、伊藤はそれを口に含んだ。数さじ分だったが、和恵はそれでもうれしい。 「ああ、久しぶりに食事ができてよかったわね」 それが、母が息子にかけた最後の言葉になった。伊藤のがんはこのとき、全身の6カ所に転移していた。もはや外科手術で取り除くことは難しく、抗がん剤や放射線治療が頼り。モルヒネを飲みながらの闘病だった。2009年3月20日。そんな苦しみの日々が終わった。8年半にわたってがんと闘った伊藤は「眠るように、すーっと」(和恵)逝った。34歳だった。
そして舞台はハーモニーへ
21世紀後半、〈大災禍(ザ・メイルストロム)〉と呼ばれる世界的な混乱を経て、 人類は大規模な福祉厚生社会を築きあげていた。 医療分子の発達で病気がほぼ放逐され、 見せかけの優しさや倫理が横溢する“ユートピア"。 そんな社会に倦んだ3人の少女は餓死することを選択した―― それから13年。死ねなかった少女・霧慧トァンは、世界を襲う大混乱の陰に、 ただひとり死んだはすの少女の影を見る―― 『虐殺器官』の著者が描く、ユートピアの臨界点。